タイトルなし
好きな人が死んでから、半年経った。
今でも、その人のことは脳裏にチラつく。
向こうは既婚者だったし、私に対して、向こうは、そういう感情はなかった、ハズ。
でも、きっと私の熱い視線は気付いてたんじゃないかな。
決して一線を超えるようなことは私たちの間にはなかったけど、定期的に二人で食事に行って、いろんな話をする仲だった。
もともとは、上司と部下、という関係だったけど、私が会社を辞めた後も、ものすごく気にかけてくれて、上司と部下、を越えて、人間対人間、いろんな話をできるようになったのが、本当に嬉しかった。
でも、どこかで、やはり、彼のことを男性として意識している自分も存在していた。
もしかすると、絶対に自分と男女の仲にはならない人を、いつまでも想い続けている、というシチュエーションを楽しんでいたのかなぁ。
でも、好きだったんだ。
彼の前だと、いつも以上に、女を意識して、可愛く見られたい、という想いが湧いてきてたし、その手に触れたいなぁ、って、いつも思ってた。こちらから触れることは、決して無かったけど。そういうところは、ほんと昔から真面目なんだよなぁ。いや、当たり前なのかな。
いくら酔っても、理性働いちゃって、「酔っちゃった♡」みたいなこと、言ったことないんだよなぁ。向こうから来られちゃったら、受け入れちゃう方なんだけど。。(あ、もちろん、気の無い人は受け入れないけど)
あぁ、逢いたいなぁ。もう二度と逢えないけど。
あまりにも突然のことで、年明けたら会う約束もしてたのに、全然連絡も取ってなかった元同僚からクリスマスイブに、急に連絡が来て、知らされた時は、頭真っ白になって、震えた。
通夜の日に連絡きて、どうしても、参列できなかったから、告別式に供花だけは出した。
それにしても、もし、あの時、元同僚が気を利かせて連絡してきてくれてなかったら、何も知らずに、死んだ後に、彼にLINE送ってた。
死んだことを知らないままでいたとしたら、って思うとゾッとする。それと同時に、あぁ、知らされる術を持たない私は、彼とは無関係な存在だったんだな、って実感したんだ。急に死んじゃったことも悲しかったんだけど、彼と自分の関係ってなんだったんだろう、ってモヤモヤした想いの方が溢れたんだ。
堂々と異性として好きになっちゃいけない人だったから、元同僚にも私のこの気持ちを打ち明けたことはないし、この悲しい気持ちをぶつけて分かり合える人が今もいない。ただの元上司と元部下でしょ、そんなんじゃない!そんなのに収まらないよ。
そして、思ったんだ。あぁ、結婚して家族になることって、その人の最期を一番そばで、看取ることを真っ先に受けられる権利なのかもしれないって。
本当に本当に好きだった。何度も、真面目に告白しようと思いながら、止まって、彼を特別に慕う、後輩でい続けたんだ。
一度、思いっきり泣きたいなぁ。まだ実感できてないのかもしれないなぁ。好きだったよ、って思いっきり叫びたいなぁ。
自分の未来
ドナルドダック、エジソン、と同じ誕生日に、年齢を一つ重ねて、
ほんのすこーしばかり、想いを巡らせてみたんだけど、
別に誕生日を迎えて嬉しくない。
これが今の一番の正直な気持ち。
20代後半くらいから、誕生日を迎える度に、将来のこととか考えて、ちゃんと計画的に生活してるのか。って、話を振られるから。
計画的ってなんなのよ。
とりあえず、なんかあったときのために、保険は一通り入ってるけども。
当然、よくある、結婚は?子供は?攻撃にもあってきたんだけど、2年前の誕生日の衝撃発言を受けて、ここに関しては触れないようになったんだけど、
一人で生きていくんだったらちゃんと貯金しないと、攻撃にシフトしたわけだ。
まぁ確かに、老後2000万とか、言われたら、そんなん無理だわ、って感じなんだけど、
とりあえず、私には、計画的に人生を生きるってことの意味すらわからないんだよ。
別にいろんな生き方があっていいと思うし、自分で立てた計画通りに生きることに価値を見出せる方を否定するわけでもないし、好き好んでマイノリティ側になろう、とか言うわけじゃないけど、ただ、自分と一致しない部分が多いだけなんだ。
一般的に長い人生だ、と思ってるけど、別に、私自身の人生が長いかどうかなんて、それこそ誰にも保証なんてされてないんだ。
別に、明日死ぬかもしれない、と思って刹那的に生きている、と言うわけでもないけど、そんな老後のことまでは考えて生きてない。
なんなら、10年後も、30代前半の今の気持ちと変わらないまま生きてる気しかしないんだよね。
てか、老後、という市場、は私の頃にはもっと良いシステムになってる気がするし(ちょー他力本願)、なんなら、今以上に働き方も多様化してるだろうから、なんかどうにかなると思ってしまうわけなんですよ。
別に頑なに一人で生きていく、とか決めてるわけでもないし、特に、すごーい先まで考えて、逆算して生きていかなくても、って思っちゃうんだよ、人生は仕事じゃないんだし。仕事は、ある程度達成目標が決まってるから、それに向かって、逆算して、行動計画を起こして、進んで行かなくてはいけない部分はあるけど。
人生はさ、ゲームじゃないんだから、必ずここまでに、こうなってることがゴール、っていう設定はしきれないんだよね。ある程度の目標は立てれるけど、それってあくまでも、目標であって、ゴールじゃない。
でも、そう考えると、目標設定の積み重ねが大事なのかなぁ、人生。あー、ブレてきた。
とりあえず、四半期ごとくらいを意識して、やってこ!!
ホントウノキモチ
彼と付き合いはじめて、3年が経過したころから、ホントウノキモチには気付いてたんだ。
私、意地になってる。
もう、彼が好きで好きで仕方ない、というような気持ちは薄れていた。
当たり前といえば当たり前なんだけど。。
それでも、しばらくは、彼は私にとって必要だと思っていた。いろんな意味で。。
決して、嫌いになった、ってことはなかったし、彼と私の間には、決まった時間の過ごし方が流れるようになっていた。
でも、さらに時が進む中で、この決まった時間の過ごし方すら、窮屈になっていった。
また、この週末がくる。今週はそういう気分じゃないなー、と思うことが増えていった。
彼だってバカじゃないから、気付いてたと思う。良くも悪くも私のことを知り尽くしてたわけだから。
知り尽くす。
本当に知り尽くされてたかは分からないけど、私からすると知り尽くされた気がしていた。
知り尽くされた私は、別に、縛られてるわけじゃないのに、身動きが取れなくなっていった。勝手に自分で縛ってただけなんだけど。
それに、彼を通して広がった世界以外にも、今の会社に入って、これまで知らなかった働き方、頭の使い方を知った。
だから、いつの頃からか、彼と私の会話は私の仕事の話のみになっていった。
私が喋らなかったら、何も会話がないし、新しいことも何もない。
あれ、なんでこうなったんだろう。
あ、私、彼に魅力を感じなくなってる。
そして、彼にとって、私は必要な存在、ってことではなかったんだな、とも思う。
私という人間に付き合ってくれてありがとう。
完。
ウツリカワリ
世界が広がっていく感じ。
それは、確かにそうだった。
でも、あくまで彼を通して広がった世界だ。
いつの頃からか、私の考えなのか、彼の考えなのか、だんだん曖昧になっていった。
冷静に振り返ると、、付き合いが長くなると、似てくる、とかそういうことではなく、自分で考えることがめんどくさくなっていったんだ。いや、私が廃人になっても、彼が私のこと、どうにかしてくれる、そう信じていた。
彼は出会った時から、まったく変わってない。
私のことを常に見守る、というスタンスだ。
私がどうしたいか、が最優先。
出会った頃は、それがありがたかったはずなのに、次第に苦しくなっていってたような気がするんだ。
私が変わっていったのかな。。ただの私のわがままなのかな。。
アノコロ
アノコロ…
私にとって、彼の全てが新鮮で、退屈な毎日の突破口になってくれるような存在だった。
ずっと日本で当たり前のように、義務教育を経て、大学卒業して、いわゆる会社員になった私にとって、彼の若かりし頃の破天荒?な体験談はあまりにも新鮮だったんだ。
彼を通して、知らない世界が広がっていくのがとてもとても楽しかった。
彼と出会ったのは、特に不満があったわけではなかったけど、漠然とこのままこの会社でずっと働いていくことに不安を覚えてた頃だった。
もう、具体的には思い出せないけど、私は彼に、これまでの私のこと、今の会社で求められていること、それに対して自分なりに考えていること、などなど、かなり短いスパンの中で、ぜんぶ一気にわーっと吐き出した気がする。
彼が特別何か与えてくれたわけじゃないけど、私のことを一生懸命理解しようと、私のために彼の時間のほとんどを費やしてくれる彼のことが、私にとっては、自分の一部になっていった。自分のことを押し付けずに、ただ話を聞いてくれる彼の存在は、私にとって、とても貴重な存在だったんだ。
彼からはっきりとした助言をもらったわけではないんだけど、なんか急に思い立ったように、会社を辞めた。自分でもびっくりだったけど、他の選択肢は浮かんでこなかったんだ。このときの自分の感情をうまく説明することは今でもできない。
通常の私の思考回路で言ったら、辞めた次のことに対する不安の方が先行して、きっと、この決断には至らなかったに違いないのだが、彼が付いている、という精神的な安心感から、思い切った決断に至ったのかもしれない。
あとは、ウダウダ言っていること自体が急にバカバカしくなったんだ。ウダウダ言ってたって、一生ウダウダ言ってるだけで何も変わらない明日がやってくる。そんな時間、なんの意味もない、無駄だ、って思ったんだ。先のことは分からないけど、とりあえず、一旦会社辞めよう。そんな感じ。
辞めて働かない期間中、彼と一緒に海外もたくさん行ったし、これまでしたことないことにもチャレンジした。
世界が一気に広がった。
ひねくれ者とアレルギー
私はひねくれ者、なんだろう。
頭が良い、という言葉を素直に受け止められない。
頭が良い、の前後に付くであろう言葉を探してしまう。なんか正当な評価でない気がするんだ。
たとえば、芸能人のテレビのコメントを聞いて、「○○って、頭良いんだねー」という何気ない言葉。前後に、「意外に」というニュアンスが込められていることが多い気がするんだ。
あとは、割と関係が近い間柄において言われることのある、「○○って、頭良いのに、アホだよね」とかその他いろいろ。要は、頭良い、というイメージからかけ離れてる言葉が付くパターン。
どちらの例も、褒めてるのか貶してるのか、はともかく、"意外さ"が共通している。
ここで、自分の話に戻るのだが、私は、たぶん、ずいぶんと長い間、イメージ通りの人間で、"意外さ"のカケラもなかった。ちゃんとした親に育てられたのね、という見た目(校則はゆるかったけど、髪も染めなかったし、当時流行ってたルーズは履かず紺ハイソ派)で、成績もまぁそこそこで、まぁどこにでもいるような普通の女の子だった。
別に、学生時代、成績が極端に上位だった訳でもないのに、なんでか知らないけど、周りには、「頭が良いキャラ」「きちんとしてるキャラ」が付いてきてた気がする。
と書いてたけど、いや、本当にそうなのかな。自分がそうでありたかったのかな、もしかして。。
でも、大人になってからも、同じように思われがち。
つい最近も、「Aちゃん、って、頭良いよね。その頭の良さ、もっと有効活用したい。なんかまだ活かしきれてない気がする。」と職場の同僚に、何気なく言われた。
んー、これってどういうことだろ。彼女は本当にそう思ってくれてるだけだから、ここから先は私の得意のひねくれ思考なんだけど、ただ頭良いだけで、私って何もこの仕事に貢献できてないなぁ、と悪い方向に入っていってしまう。。あー、自分、めんどくさい。
さらに潜ってみると、もっとめんどくさいと言うか、醜くて大嫌いな自分が出てきてしまうので、そこから先考えることをストップしてしまうのだけど、私は自分の活かし方が全く分かっていない。向いていることも分からないし、全てを賭けたいほど、好きなこともない。何をやっていても、まぁこんなもんだろう、とどこかで思ってしまう自分がいるし、私の頭の使いどころは、こんなとこじゃない気がする、と偉そうに思ってしまう。だから、一所懸命に何かに取り組む人って、尊敬するとともに、羨ましい、と思う。そういう人って、当たり前のように、「私にはこれしかできないから。Aちゃんみたいに、なんでもできるほど頭良くないし。」と爽やかに言えちゃうんだ。
でもさ、これしかできない、と信じて何かに取り組めるのも、生きてく上で、ものすごく高いスキルだし、気付いたら彼女でなきゃやり遂げられなかったモノになっているに違いない。私のことを何をもって頭良い、と周りの方が言ってくれるのかは分からないけど、仮に頭が良かった、としても、それを活かせてなければ、私はタダのお飾りだ。私でなくても良いよね、っていつの日かなるだろう。
ただ、幸いなことに、私は今、とても恵まれた職場環境にいる。
ノルマをこなすことが評価されるのではなく、可能性や思考に対してちゃんと一定の評価を与えてくれる環境だと思う。もちろん、数字は意識しなきゃいけない部分ではあるが、そこは最低限みんなちゃんとやっているよね、という前提のもと、人をちゃんと見てくれていると思う。ノルマをこなせ、と言われるとやる気なくなるし(私の場合)、この制度はどこかで破綻する(だからそういう職場は人の入れ替えが激しい)と思っているが、人で仕事が回っている職場って、逆に生産性が上がってると思うんだよなー。でも、ノルマが与えられない分、苦しくもあるんだけど。ノルマある方が文句言いながらも、余計なこと考えずに済むから。
あるとき、今では大好きな上司に、飲みの席で言われたことがある。
「お前は確かに頭良いと思うよ。お前と比べたら、俺も含めてみんなバカかもしれない。でも、そのバカを使っていかなきゃいけないんだよ。バカにしたような顔を絶対に見せちゃダメだ。要らないところで足引っ張られるなよ。」
この言葉は、ひねくれ者の私にとっては、珍しいことに、言われた瞬間、ストンと腹に落ちた言葉である。そして、常に私の頭の中に貼られている。気が緩むと奢ってしまいそうになるから。
ひねくれた発想がきっとこの先ゼロになることはないけど、ひねくれなくても素直に受け入れられる瞬間、ってのは、先の上司の言葉の例のように、あると思うんだ。でも、日々何も考えてなかったら、そういう瞬間も訪れないと思うんだ。だからぐちゃぐちゃ考えてばっかりで自分でもめんどくさいなー、って思うけど、これからも考え続けずにはいられないんだ。
さ、今日は、文章をまとめようとするのはやめて、まとまりのない文章だけど、これで、終わり!
これから、自転車漕いで汗流してくるー!!
混乱と乱れのない人生はやり方が間違ってる
タイトルは、村上春樹が自身のラジオの恋愛相談コーナーでの回答からの抜粋。
逆説的に言うと、混乱とか乱れが起こったとしても人生だからしょうがないじゃない、ってことなんだけど、
59歳の上司が、定年間際で新しいことにチャレンジするときに、この言葉を引用して、決意のほどを述べていたことで知ったわけです。
で、実際に聞いてみたくて、その音源ないかなー、と探してたところ、音源は見つからなかったんだけど、以下のページを発見。
https://www.excite.co.jp/news/article/TokyoFm_qc8ivBl4m1/?p=3
この言葉の前にどうやらもう一節あって、
「人生ってセックスと同じで、混乱もなく乱れもなくセックスが終えられたとしたら、それはやり方が間違っている。」
で、このあとに、タイトルの言葉が続くわけです。
なんかうわぁ、って感じですよね。
想像が追いつかない!
混乱と乱れを感じたことがあっただろうか。私の心は静かで、そして一定に保たれた秩序の中に私は存在していた気がする。
混乱と乱れ、私の中にも起こしたかった、のだと思う。人生においても、セックスにおいても。でも、自分1人で起こすことは難しい。
だから、女性向け風俗、に縋ったのかもしれない。
そして、激しい行為が混乱と乱れを生じさせるものではないことを知る。
確かに、激しくされれば、一時的に物理的な乱れは生じるけど、すぐに心は静けさの中に戻っていくんだ。
あぁ、心が解されてないと、混乱と乱れ、は生まれないんだ。そして、心が解されて、生まれる、混乱と乱れ、は、人生を豊かにするんだ、きっと。
心を解すこと、それは、大事な共同作業。その共同作業に付き合ってくださるセラピストさん、本当にすごいなぁ、と思うし、誰にでもできることではない、と思う。この共同作業で、違和感を感じないセラピストさんと出会えたなら、それはとってもステキなこと。
こうゆう気付きを与えてくれたセラピストさんの存在、お店の存在、大事にしていきたいな。