依存という言葉から掘り下げる

私は、何にも依存なんかしてない、そう思ってた。

 

依存、と言うと、何らかのモノを欲さずにはいられず自分のキャパを超えてまで手に入れようとしてしまったり、特定のヒトに執着しすぎて相手にとって、過度な行動をとってしまうこと、

だ、とざっくり理解していて、これが大きく一般的な概念から外れていないとするならば、私は当てはまっていない、そう思っている。

 

でも、一周回って、私も依存してるかもしれない気がしてきている今日この頃。

 

モノ、ではなく、ヒトに。

 

私は、自分でも気づかないうちに依存してたかもしれなくて、それによって、何もしなくなってしまった。何もしなくなった、と言うと語弊が生じそうなのだが、したい、と思い付く事がだんだん少なくなっていってた。

でも、これって、自分の気力がなくなってた、ってことではなく、依存により、自分の核の部分に蓋をしてたのかもしれない。

 

なぜか。

 

「〇〇は、そのままでいいんだよ。したくなければしなくていいんだよ。考えすぎなくていいんだよ。」という、すべてを包み込んでくれた、と思っていた、彼の存在がたぶん大きい。

 

そんな彼の存在に、私は確かに救われたし、私が変わるきっかけになったことは間違いないと思う。

 

でも、、、

 

いつしか、自分に都合の良い解釈をするようになって、どんな私でも、彼は私を受け入れてくれる、と、私は自分自身と向き合うことを避けるようになっていた。

私に何もなくたって、恒久的に私たちの関係は変わらないのだ、とも思っていた。いや、そうであって欲しかったのかもしれない。私は、ある種、自分を犠牲にして、彼を試していたのかもしれない。

これって立派な依存。。

 

今回のブログでは、依存についての是非を問いたかったのではない。

ただ、一つの収穫は、今回、潜り込むことによって、「依存なんかしてない」と思い込んでた自分の状態を正しく知ることができた、ということ。

 

その上で、私は、どうしたいのか。

焦らずに、少しずつ少しずつ。